本記事では、学而図書より2022年6月に刊行された『「現代の国語」はなぜ嫌われるのか 高校国語の歴史研究と実態調査が示す新たな可能性』(笠原美保子 著)要旨の解説を通して、国語科目「現代の国語」の成立背景、戦後から残る高校国語の課題、課題克服への道のりなどを概観していきます。
「現代の国語」が抱える課題とその対策
『「現代の国語」はなぜ嫌われるのか』著者は、過去の類似科目が高校教育の現場で受け入れがたいとされた原因を分析し、「現代の国語」が同様に直面しうる課題を、以下のように整理してきました。
- 小説が扱えない
- 「進学校」になじまない
- 指導・評価がしにくい
- 国語科教員の「専門性」が生かせない
その上で、高校国語科において「話すこと・聞くこと」「書くこと」の指導はより充実されるべきという立場から、著者は上記の課題に対する解決策を次のように提案しています。
- 「書く」「話す」を喚起する小説を探す
- 学びの基礎診断の認定ツールを利用する
- 「現代の国語」の応援体制を作る
- 自己批正の力をつけさせる
「書く」「話す」を喚起する小説を探す
「現代の国語」においては、小説を「読むこと」の指導は行えず、あくまで「話すこと・聞くこと」「書くこと」領域の目標を達成するためにのみ、小説を用いた言語活動が可能となります。これは一見すると窮屈な制限ですが、「この制限は、今まで授業で扱えなかった小説を生徒に出会わせる好機ともなる」と著者は述べています。
従来のように「読むこと」の指導のために小説を選ぶなら、「読解力の伸張」が目的となる以上、内容理解に適度な抵抗が求められます。その結果として、たとえ良質であっても「読みやすい」作品は、教材として選ばれにくくなるでしょう。
しかし、「現代の国語」にあっては、「テストが作りにくい」作品こそが「読むこと」以外の領域の教材として生きてくると著者は主張しています。その例として、著者は村上春樹「沈黙」を挙げ、ぜひとも生徒に読ませたいと思いながら、「読むこと」の教材として授業を展開することの難しさが壁となっていた自身の経験に触れています。
そして、小説を扱った「話すこと・聞くこと」「書くこと」の授業構想は、以下の順で構想されるべきだと著者は整理しました。このうち項目4には、上記「沈黙」を基にした企画例も簡潔に記されています。
- 「生徒の価値観を揺さぶるような作品」を選ぶ
- 「話すこと・聞くこと」「書くこと」領域のどちらの指導を行うかを決める
- 生徒の言語事項の実態を把握し、めざす姿を考える
- 指導事項を達成するような言語活動を企画する
学びの基礎診断の認定ツールを利用する
高大接続改革の見送りによって、「現代の国語」を忠実に行うことと、生徒の進路保障との接続性にも、不透明さが生じてしまいました。この問題について、著者は「学びの基礎診断の認定ツール」を利用することによる解決を推奨しています。
特に、「高校生のための学びの基礎診断認定ツール」のうちから国語に関係するものを一覧にまとめた上で、その利用価値の高さを指摘していることは、重要な論点となりうるでしょう。これらの認定ツールの受検結果を参考に、正答率の低い問題を検証することによって、教員も自身の「現代の国語」指導と評価を改善することが可能となります。
「現代の国語」の応援体制を作る
「現代の国語」において評価・指導がしにくいという問題は、「指導法・評価法がわからない」という面と、「方法がわかっていても作業が困難である」という面の、二つの側面を同時に抱えています。
この困難さを解決するためには、英語科での取り組みに学び、「現代の国語」を少人数クラスで展開することが必要です。これは決して実現不可能な施策ではなく、高校2年生の古典が少人数クラスで実施されたという自身の経験を挙げた上で、国語科は「現代の国語」の少人数展開を希望すべきであると著者は主張しています。
また、教科内で、この科目の指導・評価法に関する知恵を出し合っていくことも重要になります。そもそも、高校国語科は、昭和38年度に「現代国語」が独立するまで、近現代の文章の指導法に対する関心が薄かったのです。当時の生徒も、自力で読める文章を学校で教わることへの抵抗が強く、「学校で先生に教えてもらいたいのは古典である」と考え、現代文を習うことの意味を理解していませんでした。
こうした状況から、長年の研究・実践の積み重ねによって現在の指導の形ができあがってきたことを考えれば、「現代の国語」もまた、これからの協働によって新たな指導法・評価法が見出されていくべき科目であるといえるでしょう。
自己批正の力をつけさせる
そうはいっても、少人数クラスの実現には、当然ながら困難も伴います。教員一人で200人分の作文を採点をしなければならないとき、そこで必要になる解決策は「生徒に自己批正の力をつけさせる」ことです。
著者は、「自分が書いた意見文を自己批正する」活動として、西垣通「知識社会という幻想」を教材とした例を挙げ、以下の展開を紹介しています。
1次:本文の構造と内容の理解
2次:本文の要約
3次:著者の主張に対する意見を書く
4次:本文にはない言葉を補って説明する
5次:3次で書いた文章の自己批正と振り返り
この自己批正にあたっては、ルーブリックを使用した自己評価の例、生徒が自らを指導的立場に見立ててコメントを付与する例に加え、実際に生徒が記した自己批正の例が提示されており、「現代の国語」での展開が具体的に検討できる内容となっています。
価値ある「現代の国語」創出に向けて
「現代の国語」と類似する過去の科目「国語表現」や「現代語」が掲げた指導目標は、高校教育の現場で十分に扱われることがありませんでした。いま「現代の国語」に必要なのは、高校国語科において「話すこと・聞くこと」「書くこと」の指導をより充実させることの価値を、教育の場で明らかにしていくことです。
そして、「現代の国語」においては、「生徒と小説の出会わせ方を再考させる」価値が新たに生じる可能性があると著者は説いています。これまで、高校国語においては、決して少なくない授業で「文学作品の解釈の押しつけ」が行われてきたのではないでしょうか。しかし、「読むこと」を含まない「現代の国語」の時間は、解釈の押しつけではなく、「作品を読んで批評する活動」が成立するきっかけになりうるのです。
「現代の国語」という科目は、その目標の実現をめざして、新たな試みがさまざまに行われていく可能性を十分に有しています。そして、そこで展開される優れた実践によって、高等学校で学ぶ生徒たちが「新しい力」を獲得することこそ、本書の著者が願うことにほかなりません。