「知」の本質と民藝の「美」
原因不明の病状に次々と見舞われ、先の見えない恐怖に怯える日々の中、初めて読んだ『民藝とは何か』に記された柳宗悦の言葉は、私に強い衝撃を与えました(前回の記事はこちら)。

そのときに得た、「個人の認識も人格も超えた、自然の手による研磨から生み出される大智が存在する」という認識は、今も私がささやかに出版を続ける上での支えになっています。
私の感覚を端的に表すのなら、柳が説いた「美」の本質と、人々の成果を燃料としながら巨大な運動をどこまでも続け、やがて真理に至ろうとする人類の「知」の在り方に、共通性を見いだしたということなのでしょう。厳密な「民藝」思想の理解としてはあまりにも緩く、表面上の論理としては両者が相反することは自覚しています。しかし、そうとしか言いようがありません。
「民藝」とは、多くの場合、民衆の手が生み出す無名の工芸品を指すものです。たとえば茶道の大名物とされる井戸茶碗も、本来は朝鮮半島で日常の用に供されるためにつくられた、名もない工芸品でした。いまでは恐ろしい値がついていたとしても、先人が最初にその「美」を見出したとき、目の前にあったのは「雑器」「下手物」といわれるような、普段づかいの器でしかなかったのです。
なぜ、日常のもの、無名のもの、普段づかいの工芸品に「美」が宿るのか。柳は、『民藝とは何か』をはじめとする著作のなかで、無銘の品に生じる「美」の根源を柔らかに、そして明晰に語ってきました。それを私なりに整理すれば、次のようになります。
無限の反復が生む「自然の大智」
民衆が生活の糧を得るためにつくる器は、人々の日常生活で使われる道具なのですから、まずは丈夫であり、しかも素早く大量に生産できる廉価なものでなければいけません。そうでなくては、生活が成り立たないからです。それぞれの地域で職業共同体(ギルド)が生まれ、そこに属する人々は、同じものを、大量に、速く、手をつかってつくっていきます。
そこに、個人による過剰な工夫が入り込む余地はありません。色付けも、あまりに華美で手間のかかる装飾を加えれば、たちまち日常品としては高価になりすぎて、買い手がつかなくなることしまうでしょう。見た目を重視しすぎて繊細なつくりを採用すれば、たちまち壊れてしまい、日常の役に立ちません。
必定、つくられるものは、日常の用に耐える質実を備えたものとなります。職人は、それを素早く、たくさん、ひらすらにつくり続けます。やがて、つくり手は何も意識せずとも同じものを生み出せるようになり、時には雑談のなかで、あるいは談笑のなかで、十分な品質の器をつくることすら可能になるでしょう。
そうなったとき、職人の手から生み出される工芸品は、ある意味で、つくり手の人格とはまったく関係のないものとなります。職人の性格や趣味思考、つくり手の思想や教養の有無は、仕上がってくる器と結びつく必然性を持たないのです。仮に、つくり手の嗜好が誉められたものではなかったとしても、数限りない反復と没頭を通して、優れた器は着実に、大量に仕上がってきます。
柳は、この現象について次のように述べました。
それ故生産は多量でありまた廉価である。これは数量のことに過ぎぬと思うであろうが、この事実こそは工藝の美に不思議な働きを投げる。……多くの需要は多くの供給を招き、多くの製作は限りなき反復を求める。反復はついに技術を完了の域に誘う。……人はここに虚心となり無に帰り、工夫を離れ努力を忘れる。彼は語らいまた笑いつつその仕事を運ぶ。…既に彼が手を用いているのではなく、何者かがそれを動かしているのである。
柳宗悦「民藝四十年」より
あの雑器と呼ばれる器の背後には、長き年月と多くの汗と、限りなき繰返しとが齎らす技術の完成があり、自由の獲得がある。それは人が作るというよりも、むしろ自然が生むというこそいうべきであろう。
柳宗悦「民藝四十年」より
日本人と「自然の大智」
私はこの文章に接したとき、長年の疑問のひとつが氷解する思いがしました。日本で生きる人は、武道しかり、宗教観しかり、なぜ反復と滅私の果てに「自分の外にある、自分より大きな何者か」に真理を見出すのだろう、という素朴な疑問への端的な回答が、柳の言葉にあらわれているのではないでしょうか。
この島国で生きる人間は、何かの分野でどこまでも突き進むと、「自分の外にあるもの」に絶対的な理を見出すように、私には思えます。たとえば仏教の浄土宗であれば、「自力」の限界を知り、絶対的な「他力」に依ることが重視されていることは言うまでもありません。開祖・法然が死の間際に遺した一枚起請文は、個々の知識や解釈に依ることはならないと強く戒めるものでした。一方、浄土宗とは対極にあったはずで、仏陀の真の教えを激しく探し求め続けた日蓮もまた、生命を賭けた探究の果てに「南無妙法蓮華経」の唱名という形で信仰の在り方を結実させました。
日本で生まれた新仏教の思想は、原始仏教が説いた表面上の論理とは、あまりにもかけ離れたように見えるものです。法然であれ、日蓮であれ、大陸から伝来したあらゆる文献に触れている当代随一の智者が、最後は無心に「より大きなもの」へと結びつこうとする行いに至ったのは、なぜなのでしょうか。
あるいは、剣道・柔道・杖道や合気道のような武道は、はじめ対人の殺傷技術として生まれながら、やがて本来の目的を超えて、人の生き方を学ぶ「道」へと変化してきました。武道に限らず、この国で生きる人間は、たとえばスポーツ、研究、職業上での技術習得過程など、あらゆるものを「~道」へと昇華させようとする性質を有しています。
そして、ひとたび技術が「道」へと変化すると、それらは「禅」とも親和性を高め、個の限界を超えた真理へと至ろうとする運動へと変質するのです。「何でも道にしてしまう」日本人の特性は、どこから生まれてくるのでしょうか。
いま思うに、一個の人間の理解や認識では測れない「より大きなもの」が存在し、自らの「外」にこそ真理が宿っているという感覚は、多くの日本人にとって、決して不可解なものではありません。この国で育ち、暮らしてきた人間は、「自分よりも大きなもの」が存在することを、無意識のうちに了解しています。それは、表だっての信仰の有無や宗派の違いを超え、この島国で生きる人の認識に内包されている共有理解だといってよいはずです。
1920年代、ドイツの哲学者・オイゲン・ヘリゲルが、弓道の達人である阿波研造に師事しました。その過程において、指導方針を疑うヘリゲルに対し、阿波研造は、暗闇の中に置いた蚊取線香の火玉だけが的の位置を示す中、二本の矢で的の中心を射貫いてみせます。このとき矢の一本目は黒点の中央に命中し、さらに二本目の矢は一本目の矢筈を砕き、その軸を割って黒点に突き刺さっていました。このとき、阿波研造は次のように述べたと記録されています。
「……とにかく私は、この射の功は“私”に帰せられてはならないことを知っています。“それ”が射たのです。そしてあてられたのです。仏陀の前でのように、この的に向かって頭を下げようではありませんか」
オイゲン・ヘリゲル著 ,稲富栄次郎・上田武訳『弓と禅』,p.105,
福村出版株式会社,2010 [1981] 年.
私自身も武道に(わずかではあっても)関わってきたものの、初めてこの文章を目にしたとき、その内容はすぐには理解しがたいものと感じられました。
しかし、柳の「既に彼が手を用いているのではなく、何者かがそれを動かしているのである」という表現に接したとき、にわかに思い出されたのが、この阿波研三の言葉です。そして、これこそが私たち日本に生きる者が共有する自然観、信仰心、道徳心の根源なのではないか、と思い至りました。
この点について、柳は以下のようにも述べています。
凡夫さえも美に携わり得る道、それが工藝の一路である。丁度無学な者にも神との邂逅が許されているのと同じである。
柳宗悦「民藝四十年」より
否、彼らは無学であったのみではない。中には邪な者もあったであろう。盗みせる者さえもあったであろう。怒れる者、悲しめる者、苦しむ者、愚かなる者、笑える者、悉くの衆生がこの世界に集る。だがそれらの者にさえも工藝の一路は許されている。
柳宗悦「民藝四十年」より
知における「最も優れたかたち」とは何か
柳宗悦の文章に触れた私が理解した(と今のところ思っている)ことのひとつは、「目的をもって限りない運動を続けるものは、それを取り巻く自然によって許された世界のなかで、自我や個を超え、もっとも優れた『かたち』をとるように変化していく」ということです。
少し言い方を変えれば、「人間という生物が、自然に許された最も優れたかたちをとるとき、そこに真理があり、自由がある」とも表現できます。無限の反復の果てに生み出される「かたち」とは、人間の身に許されている限りにおいて、最も目的に添った、最も効率的で、最も自然の理にかなったものです。そこに、個人の理解や解釈の限界を超えた、美があり、武があり、真実があり、自由があります。
私は、この感覚こそが日本人の根底に共通するものであって、真理に至ろうと願うあらゆる試みの先にあるものなのだと、いったん理解しておくことにしました。
このようなこと言うと、あまりに東洋的と思われるかもしれません。しかし、西洋科学においても「コンストラクタル法則」が提唱されているように1)、無限の反復と最適化が生み出す最も優れたかたち、という考え自体は、決して荒唐無稽なものではないはずです。
1)エイドリアン・ベジャン著,柴田裕之訳『流れといのち──万物の進化を支配するコンストラクタル法則』紀伊國屋書店,2019年.
そして、おそらく、こうした感覚は、日本という国の風土に根ざしています。豊かな自然環境の中にあって常にその恩恵を受け、同時に、定期的に発生する巨大災害によって人間の限界を痛感させられ続けることは、私たちがこの国で生きる以上は避けられない宿命です。その営みの果て、無意識のうちに連綿と受け継がれてきた自然観こそ、「個を超えた自然の大智」なのだろうと私は考えます。
そして、私たち人間が積み重ねる「知」においてもまた、同じことが言えるはずなのだと、当時の私は不意に直観したのでした(私のことなので、大外ししている可能性もありますが)。人間個人としてではなく、社会的生物である人類という集団が錬磨し、磨き上げ、最も優れた「かたち」を目指す営みこそが、私たち人類の「知」の在り方なのではないでしょうか。
そして、美や武に至るために人間が己の身体で反復を繰り返すように、集団としての人類が知の本質に至るためには、徹底して「書かれた言葉」を巨大な集団的知性の中に投げ込み続けるほかないのだと、そう考えた先にあるささやかな事業が、この「学而図書」に他なりません。
そういった訳で、私はこうして本をつくっているのですが……。明らかに説明不足なので、そのうち第4回に続くかもしれません。この投稿は、あくまで個人的な思いを吐露するブログとして書いており、客観的に価値のある情報を提供する記事ではありませんので、そのあたりは諸々ご容赦ください。
